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2012年7月20日 (金)

影を慕いて

影を慕ひて 佐藤千夜子

http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=WPnttPCVgw0

影を慕いて 美空ひばり
http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=h-T3fSFUhkw

影を慕いて/天童よしみ
http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=sCuOhRmoi0Q

作詞・作曲:古賀政男、唄:藤山一郎

1 まぼろしの 影を慕いて雨に日に
  月にやるせぬ 我が思い
  つつめば燃ゆる 胸の火に
  身は焦れつつ 忍び泣く

2 わびしさよ せめて傷心(いたみ)のなぐさめに
  ギターを取りて 爪弾(つまび)けば
  どこまで時雨(しぐれ) ゆく秋ぞ
  振音(トレモロ)寂し 身は悲し

3 君故に 永き人生(ひとよ)を霜枯れて
  永遠(とわ)に春見ぬ 我が運命(さだめ)
  ながろうべきか 空蝉(うつせみ)の
  儚(はかな)き影よ 我が恋よ

《蛇足》 昭和初期の深刻な不況のなかで、将来への不安や苦学の疲れなど困難な状況にあった明治大学生・古賀政男は、手痛い失恋を被ってしまいます。

 友人と宮城県の青根温泉を訪れた政男は、絶望のうちに自殺しようとその地の山中をさまよいましたが、彼を捜し求める友人の呼び声で我に返り、自殺を思いとどまります。
 その夜、友人とともに泥酔するまで飲んだ政男は、音楽一筋で生きてゆく決心を固め、帰京します。このときの懊悩を歌にしたのが『影を慕いて』で、これが作曲家古賀政男のデビュー作となりました。

 昭和3年(1928)11月、24歳のとき、古賀政男は、創設に参画した明大マンドリン倶楽部の定期演奏会でこの曲を発表することにし、佐藤千夜子に歌を依頼します。
 佐藤千夜子は当時すでにスター歌手であり、学生のコンサートに出演するとは考えられませんでしたが、政男の熱意に打たれ、無償で出演することを承知します。

 彼女が歌った『影を慕いて』は大好評でした。それがきっかけとなって、古賀政男はコロムビアの専属作曲家となり(のちにテイチクに移籍)、以後順調に花形作曲家の道を歩むことになります。

 『影を慕いて』は佐藤千夜子の唄でレコード化されましたが、あまりパッとせず、昭和7年(1932)に藤山一郎が歌って大ヒットとなりました。藤山一郎は、まだ東京音楽学校(現東京芸大音楽学部)の学生でした。

(二木紘三)
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/07/post_469a.html

佐藤千夜子(1897-1968)
http://www.ffortune.net/social/people/nihon-mei/sato-chiyako.htm

NHKの連続ドラマ「いちばん星」で紹介されたので覚えておられる方も多
いかと思います。日本で最初のレコード・スター歌手・佐藤千夜子は1897年
(明治30年)3月13日、山形県天童市で生まれました。

13歳の時、英語の勉強をするため上京。ミッション系の学校に在学中オペラ
を観たことから音楽を志し、東京音楽学校に入学。ここで山田耕筰と知り合
い、山田から中山晋平を紹介されて、中山に師事することになります。

中山が野口雨情らと一緒におこなっていた「新民謡・新童謡コンサート」に
歌手として参加、この企画の中で生まれた「波浮の港」が1928年ビクターか
らレコードとして発売。これが日本の商業レコード第一号とされているよう
です。

同年、古賀政男の「影を慕いて」を歌い、これによって古賀政男はメジャー
デビューすることができました。(この曲自体はその後、藤山一郎版が大き
くヒットする)

1929年には、最大のヒット曲「東京行進曲」をはじめ、「愛して頂戴」「紅
屋の娘」などのヒットを次々と飛ばします。

「東京行進曲」は菊池寛の同名小説を映画化したものの主題歌で、日本初の
タイアップ曲であり、また「歌謡曲」というジャンルを確立した曲であると
されます。この曲のプロモーション・スタッフはレコードを持ってカフェな
どを回り、たくさん掛けてもらって曲をヒットさせ、それが映画のヒットに
もつながりました。映画の主演は入江たか子です。

これだけの大きなヒットを飛ばしたにも関わらず、佐藤はこの年の秋、突然
イタリアに渡ってしまいます。その理由については「いちばん星」では中山
晋平との不倫問題を決着させるため、としていましたが、異説では当初から
希望していたオペラ歌手になるためともされます。

しかし佐藤はイタリアで成功することはできず、失意の内に帰国。その後は
日本国内で復帰を目指すもそれも果たせず(流行歌手というのはたいがいそ
ういうものですが)、1952年ちょっとした事件を起こして新聞沙汰となり、
事実上芸能界から引退しました。

1968年12月21日、ガンのため死去。

天童市の天童民芸館は佐藤の生家を再現したものだそうです。地元では佐藤
を記念したイベントなども時々おこなわれているようです。

佐藤千夜子
ウィキペディア(フリー百科事典)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E5%8D%83%E5%A4%9C%E5%AD%90

佐藤 千夜子(さとう ちやこ、1897年(明治30年)3月13日 - 1968年(昭和43年)12月13日)は、日本初のレコード歌手。本名は佐藤千代。山形県東村山郡天童村(現:天童市)出身。晋平節を世に広め、古賀政男の才能を発見したことで、それ以後の日本大衆音楽史の発展に大きな功績がある。華々しくかつ浮き沈み激しい人生は、NHK朝の連続テレビ小説「いちばん星」のモデルとなった。

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